夜市の炒飯

Photo: "Fried rice stall at night market."
Photo: “Fried rice stall at night market.” 2019. Taipei, Taiwan, Fujifilm X-Pro2, Fujifilm M Mount Adaptor + Carl Zeiss Biogon T*2,8/28 ZM, ACROS+Ye filter

数年前、インドの地元向け(といっても、割と高級店)レストランのランチで、完膚なきまでにやられてしまった友人が、夜市に行くと言い出したときに、僕は内心驚いていた。僕が唯一、海外でやられたのは台湾であって、その意味では僕の方が、食中毒には敏感になっていた。友人が選んだ小さな(こじんまりとした、とでも言えば良いか)雙城夜市は、ほんの数分で端から端まで歩けてしまう大きさだった。

やけにアグレッシブに夜市を歩く友人は、まずは腸詰めの屋台で足を止め、巨大なフランクフルト然としたものを頬張っている。腸詰めを薄切りにしたものは好きだが、あんな塊で食って美味いだろうか。腸詰めを平らげるとまた、短い夜市を端まで歩いて行く。僕は、屋台やら、犬やら、果物やらを撮りながらちょっと間を開けてついていく。


炒飯の屋台は、相当に仕上がった感じの肌着然としたシャツを着こなしたオヤジと、若い奥さんかあるいはアルバイトなのか、30前半あたりの女性の2人で切り盛りされていた。友人はそこで歩みを止め、菜譜を吟味しはじめる。今にも泣きそうだった夜空からは雨が落ち始め、巧妙なギミックでトタン板を繰り出す周りの屋台に比べて、その炒飯屋台はあまりにも無防備に驟雨に晒されていた。

オヤジの手際が悪いわけでは無い。直前に、空気を読まずに3品も4品もオーダーを入れた、西洋人の女子4人組みのお陰で、友人の炒飯はさっぱり出来上がってこなかった。雨は更に強くなり、夜市の灯りに集まる羽虫を捕まえに、ひっきりなしに頭の上を飛び交っていた子育て中の燕の姿も、まばらになったか。

炒飯は出来ない、雨は降る、オヤジは中華鍋をふるっている。もう、炒飯が食いたいとか、食いたくないとかそういうい事では無いのだろう、意地みたいなものだ。思えば、夜市で雨に降られたのは初めてかもしれない。ベテランの屋台達は慣れたもので、巧妙に収納された屋根をせり出し、パラソルを展開し、雨水受けのバケツを置き、客足の途絶えた焼きトウモロコシ屋の店主は優雅に煙草をふかしている。かの炒飯屋台は、特に屋台自体に工夫はせず雨は無視する、という方式を採用しているようだ。


周りがすっかり雨の匂いにそまった頃に、炒飯が出来てきた。持ち帰り用に、パックに詰められている。それを、手近のテーブルの上に置いて、食べる。僕も、味見程度に食べてみる。ニンニクと胡椒の味が強い。なんというか、オヤジが土曜の昼に作りそうな、まあそんなものを食ったことは無いが、そんな感じの味だった。夜市、面白いね。

旅であんまり

Photo: “Winter sunset.”
Photo: “Winter sunset.” 2019. San Jose, CA, US, Apple iPhone XS max.

旅であんまり文章を書かなくなったのは、どういう事だろう。経験値が増えて、あんまり新鮮なことがなくなってくる、というのは有るんだろう。初めてアメリカに来たとき、最初の夜はあんまりにもびびって、ホテルのブロックから一歩も出ず、敷地の周りをぐるぐる歩いたぐらいだった。

そして、今は仕事でSan Joseまで来て、さっぱり暖房が効かない部屋に悪態をついている。窓から見える景色は、いかにも急ごしらえで、だだっ広い、郊外のオフィスエリア。彼方に、冷えびえとした北部の山々が見える。悲しい雄叫びのような、長い汽笛がホテルの横を走る線路から聞こえてくる。テレビを付ける気はせず、とりあえず手持ちのバッテリーやら、PCやら、スマホやらをまとめて充電にかけて、淡々とシャワーに行く。一泊$300以上とっておいて、この部屋には湯船も無いのか。もちろんその悪態の裏には、日本円が弱くなっている、というのもある。


シャワーから出ると、部屋は相変わらず凍えるように寒い。建ったばかりの(未だ一部は工事中の)ホテルは、今のシリコンバレーの気分を反映したような、シンプルで、クリーンで、面白みの無い内装だ。日の光が弱くなり、天井のバカ高い素っ気ないデザインの部屋は、いっそう寒々しくなった。憎悪しか感じられない、Honeywellのロゴが付いたエアコンの意味不明なコントローラーをしばしいじって、諦めた。このロゴが付いたエアコンを、僕は快適に調節できた事が無い。湯船も無いし、コントローラーがHoneywellだ。冬のテキサス、意味不明なプールサイドの部屋で散々寒い思いをした事が思い出される。だいたい、楽しい思い出、よりは酷い目に遭ったことを人は良く覚えている。


晩飯は、まずスープを頼もう。多分、僕はこの時そんな気分になったのだろう。その夜の食事で、何故か美味くも無いクラムチャウダーを、注文していた。

綺麗なのを鼻にかけやがって

Photo: “装う公衆電話”
Photo: “装う公衆電話” 2019. Tokyo, Japan, Apple iPhone XS max.

「私は綺麗よ、そういう態度をとる女は、好きじゃ無いんですよ。」
と、同僚の一人が吐き捨てるように言った。彼女がそういう態度を取っているのかは知らないが、確かに会社の中で「目立つ」ぐらいには綺麗だ。

僕は、以前彼女があるワークショップで、
「私は、人に好かれるために働いてる訳じゃないんです。だから、嫌われるような事でも、必要ならそれはします。」
と言ったことをよく覚えていた。

たいていの人に好かれる容姿に違いはないのだが、そんな凄い事を言われて、僕は割と驚いたし、ちょっと尊敬した。それは結局のところ、綺麗な人に甘いだけなのかもしれないが。

ビリヤニ原理主義

Photo: “Mutton biryani at SAHIFA KEBAB & BIRYANI in Roppongi.”
Photo: “Mutton biryani at SAHIFA KEBAB & BIRYANI.” 2019. Tokyo, Japan, Apple iPhone XS max.

東京で一番うまいビリヤニが有る、そう言われてインド人に連れてこられた。それが、この店の最初だ。
六本木駅から、ミッドタウンに向かう道すがら、こんな所にインド料理屋が有るなんて思いもよらない、そんな場所にある。

ビリヤニは、恐ろしく面倒な料理で(一度自分で作って二度と作らないと心に誓った)、出す曜日が限られる店や予約限定、そもそもビリヤニをやっていない店も多い。しかし、この店の名物はビリヤニであり、予約無しでいつでも注文することができる。チキン、マトン、ベジタリアン、個人的にはマトンが我々のビリヤニ像に対する期待値に近い。量は、とても多いので一人一皿は止めた方がいい。前菜は控えめに。ビールは1杯ぐらいにしておきたい。


出てきたビリヤニの見た目は、特に特徴が有るわけではなく、生タマネギが鎮座してぶっきらぼうな感じ。でも、一口食えば分かる。この店のビリヤニは、日本の他の店で食べるのと全然違う。誰かが言った感想、「土食ってるみたい」というのが、多分一番核心に触れている。

口に含んだ、一塊のビリヤニから、とんでもない量の情報が流れ込んでくる。基調を成しているのは、ホールのカルダモン。それに、シナモンを先頭に多種のスパイスが折り重なって、混ざり合う。融け合ってはいない、混ざっている。食べものから新しい情報を摂取する、という感覚に直面したとき、これが果たして食べものなのか、飢えを満たすために食べているものなのか、より高位の何かなのか判然としない感覚に包まれる。

美味いの?と訊かれて、美味しいです、と即答することは難しい。なぜなら、美味い、不味いという今までの尺度には絶対に並ばないタイプの食べものなのだ。凄い、というのが素直に出てくる感想。


それにしても、このビリヤニというものは、食べられる部分と食べられない部分(シナモンの木とか)が混在していて、とても食べ辛い、何故だ。と思えば、インド人が実演する手で食べるやり方。なるほど、指で触ると可食部と不可食部がよく分かり、口に運ぶ前により分ける事ができる訳か。そして、下に敷いてあるバナナの葉は、その上で指を使って食べるときに、飯をうまく滑らせる効果が有るのだという。

量が多いので用心して頼んだマトンビリヤニ1皿ではどうにも足りない、で、ベジタリアンを追加。その味は、単にマトンビリヤニから肉を抜いた、という代物では無かった。野菜と、スパイスと、ギーでゼロから構築された全く別に料理になっている。しかも、肉が使われていない穏やかな味。驚くことに、こっちの方が「美味しい」という概念には近い気さえする。

とにかくこの料理については、未知な事は圧倒的に多く、そしてビリヤニがある種の中毒的な食べもので有ることは、こうして平成最後の記事を心穏やかに書いているにも関わらず、胃の腑からビリヤニを呼ぶ声がする事からも明らか。今日はやってないのかな。。

3月10日と3月11日

3月。朝からBBCでは、人類史上最大規模の都市無差別爆撃である、東京大空襲をくり返し取り上げていた。当時、膨大な遺体の仮埋葬場所として使われた都内の公園には、今、美しく桜が咲き誇っている。


東京大空襲はなぜ10万人超の死者を出したのか。あの当時、東京の空襲は予告されており、空襲される事がわかっていた。木造建築が大半を占める居住地域に焼夷弾が落ちれば、極めて大規模な火災が発生することは、既に日本側でも科学的に予測されていたという。

しかし、首都東京の住民を全て疎開させることは、戦争の継続という観点において実質不可能な選択肢とされた。だから、疎開は厳しく制限され、東京から逃げることは困難だった(経済的な面からも、そして同調圧力的な部分からも困難だっただろう)。当時の防空法は(そういう法律が存在した)、空襲下に於いて民間人が避難することを禁止し、防火活動を強制した。例えば、空襲にあったロンドンでは地下鉄は防空壕に使われたが、当時の東京の地下鉄を空襲時の避難に使うことは禁止された。そのあたりの話は、「防空法」に詳しい。(最後のまとめのあたりで、突然アカデミックな検証というバランスが崩れて、妙な左翼本になってしまっているが、主な内容には読む価値がある。)

10万余の都民は、そうした愚かしい防空戦略の犠牲になったのだ。戦争が悲惨だからそういう犠牲が出るのではない。愚かしい政策によって、悲惨な犠牲が出るのだ。戦争に巻き込まれるのはごめんだが、その中で愚かしい政策の犠牲になるのはさらに御免被りたい。


疎開、という事で言えば、ごく最近にも僕たちは大きな選択を迫られた。

3月11日の地震と、それに続く原発事故。あれから8年の年月が流れ、今見れば東京はオリンピックに向けて空前の建設ラッシュを迎えている。あの日から続く数週間の、閑散とした東京で、ここまでの復興を予想することは困難だった。結果としては、東京を遷都する必要は、無かったようだ。

しかし、あの当時、外資系企業の中では、非常事態として従業員及び家族を西日本地域に移動させるプランを現実のものとして検討していた所もあるし、実際にある期間、関西でのオペレーションに切り替えていた企業も存在する。

果たして、東京が本当にダメだったら、我々は理性的に東京を捨てるプランを実行することが出来ただろうか。それとも、この場所に留まって更に甚大な被害を出すことになっただろうか。74年前の日本が出来なかった決断を、現代の日本は出来たのだろうか。できなかったのではないか、それがあの時の空気から感じた、僕の感想だ。