若先生の住まい

Photo: 若先生の家 2006. Kagawa, Japan, Zeiss Ikon, Carl Zeiss Biogon T* 2.8/28(ZM), Kodak 400TX
Photo: "若先生の家" 2006. Kagawa, Japan, Zeiss Ikon, Carl Zeiss Biogon T* 2.8/28(ZM), Kodak 400TX

小豆島。

映画村の外れにある、人気のない民家のセット。


若先生の住まいという設定のせいか、家具も少なく、畳はすり切れている。粗末なちゃぶ台に大きな酒徳利と、茶碗が一つ置かれている。

砂と塩でザラザラとする板の間に座り、窓の外の海を見る。


とても貧しくて、でも、シンプルで美しい生活。それはセットであって、フィクションであるのだけれど、どこかには有ったかもしれない。

誰かが来るまで、ずっと座っていた。

おやじ焼き、その正体。

Photo: "おやじ焼き"
Photo: “おやじ焼き” Contax i4R, Carl Zeiss Tessar T* F2.8/6.5.

「おやじ焼きって何だよ」という謎に、ついに答えが出るときがきた。

地元コーディネーターの協力を得て(「ん、ああ、おやじ焼きね。帰りに食べていきます?」)、その店内に侵入した。店のおばちゃんは、やたらにフレンドリー。というか、コーディネーターと、「どう最近」みたいな会話をしている。コーディネーターは常連なのだろうか、いや、大阪だけに初対面でもこれぐらいの会話はしてしまうかもしれない。


では、さっそくおやじ焼きを。

解説するとおやじ焼きは、たこ焼きの上にウズラの卵の目玉焼きが載ってる。そんな細かいもの作れないだろと思うのだが、実に、ちゃんと目玉焼きが載っている。んで、その様が「目玉のオヤジ」に似ているから、おやじ焼きだと!オヤジのためのつまみ焼でもなければ、オヤジのみじん切りが入っているわけでもない。しかしそのネーミングの駄洒落っぷりが、オヤジとも言える。そういう素敵なメニューであった。

味は、、大阪的な中身のトロリとしたたこ焼きに、卵味がまざって、相当こってりしている。これはウマイのではないかと思う、4つぐらい食える。(4皿ではない)

分かり切ったこと

Photo: 塩の光 2006. Tokyo, Contax i4R, Carl Zeiss Tessar T* F2.8/6.5.
Photo: "塩の光" 2006. Tokyo, Contax i4R, Carl Zeiss Tessar T* F2.8/6.5.

科学と機械の文化・文明が、いかに新しくなっても、食べて飲んで眠って、しかも排泄をするという人間の生理機能は、古代からいささかも変わっていない。生まれて、愛して、死んでいくこともまた、変わらない。

このわかりきっている一事を、世界の人間たちが再認識せざるを得ない時代が、やがてやって来るにちがいないと思う。


続いていくもの、に最近興味がある。全てを新しくしないといけない。そういうのはまた違うように思う。人間の本質は、多分それほど複雑なものではないのかもしれない。

ひろゆきblog

ひろゆきblogを読んでいて、こんなコピペを見つけた。

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。

すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、
漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。

「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、
女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」

すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、
きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、
漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、
子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」

上のコピペには多分、色んな考え方・感じ方があるんだと思うけれど、これに対するひろゆき氏の意見というのは、凄くニュートラルというか、凄く正気だなぁと思って読んだ。

心の平穏を何によって得るか。いつ得るか。誰と得るか。そういうことを考えないといけないなと、思う。それは人によって違うカタチ。だから、自分で考えるしかない。


ちょっと前に、どこに出張してもメールが読める環境を整えないと落ち着かない、という話をしている人が居た。出張に行くのでも、まず、そこがネットにアクセス可能か、VPN が通るか、そういうことが気になって仕方がないというのだ。そして、そういうことを気にしない人間は、「我々とは違う人種だ」と言っていた。

そういう価値観もある。僕はもう、そんな風には思わない。少なくとも、そういう仕事の仕方をしたいとは、思わない。

モノを持ち続けようとすることは、未来の自分に対する不信を表わしている。そういう風に風水の本に書いてあって、なるほどと思った。

お金をえんえんと稼ごうとする事も、それに似ているような気がする。

※コピペなので、作者不詳です。